トイ・ストーリーとシドのこと
生まれながらに他の命を大事にできない相手に、「君はゴミじゃない」と言えるのか?
※この記事はトイ・ストーリーシリーズのネタバレを含みます。
主人公のウッディの人生の選び方について賛否両論あるようだけど、自分は4のウッディ肯定派。
4でウッディは、フォーキーやボー、ギャビー・ギャビーとの関わりを通じて、他者を命ある者として認め、慈しみ育てていくことの頂点へと達したんだと思う。
そのストーリーが優しくて、愛に満ちていて、自分は好き。
4のウッディ否定派の中には、3までのウッディが持つ、持ち主に対する忠誠心が失われたように感じると言う人がいる。
ウッディの行動に一貫性がない、ということらしい。
でも、トイ・ストーリーシリーズを振り返ってみると、ウッディというキャラクターがする行動って一貫しているなと感じる。
ウッディは一貫して「他者を手助けする」キャラクターだと思う。
最初の持ち主アンディの側にいることで彼が大人になるまでの成長を手助けし、
初めての親友となるバズ・ライトイヤーの側にいることで、彼が「おもちゃ」であることを受容し力を発揮する(空を飛ぶ)ことができるよう手助けし、
同じカウボーイ人形シリーズのカウガールであるジェシーの側にいることで、彼女が他者から見捨てられるトラウマを乗り越え本来の自分を取り戻す手助けをし、
サニーサイド保育園で子どもとの付き合い方が分からなくなってしまったおもちゃ達と、子どもとの付き合いが終わろうとしているおもちゃ達(ウッディの仲間達)の側にいることで、彼らが再び子どもと向き合えるように手助けし、
アンディと最後の遊びをすることで独り立ちを手助けし、
初めからゴミで出来ている手作りのおもちゃフォーキーと、初めからボイスボックスが故障していてゴミ扱いとなった人形ギャビー・ギャビー、初めから外的要因により子どもの側に行くことができないと決まっている射的ゲームの景品おもちゃダッキー&バニーの側にいることで、生まれや環境に問題があるように思えても、自分達の命はゴミではないし、自分達は誰かにとって大切な存在になり得るのだと伝え、彼らをおもちゃとしての人生に送り出す手助けをする。
ウッディはいつだって誰かの人生の問題に寄り添い、手助けしていると思う。
でも、そんなウッディでも、まだ手助けしていないキャラクターがいる気がする。
それは、トイ・ストーリー1に出てくる、アンディの隣家に住む少年シド。
シドは映画登場時点から、おもちゃを爆破させたり、分解して別のおもちゃと合体させたり、自分の妹のおもちゃを奪って壊したりと、とても暴力的なキャラクターだ。
おもちゃや他者を、周囲の望むように大事にすることができない。
だから、ウッディは映画のラストでおもちゃの掟を破り、制裁を与える。
でも、それって、シドを人間扱いしなかったということなのでは?
二度とおもちゃと関わることができなくなるくらいのトラウマを与えて、
「トイ・ストーリー」から追放してしまった。
シドだって、人間だったし、子どもだったのに。
生まれながらに、他の命(人権や尊厳などを含む)を大切にできない人間は一定数存在し、サイコパスあるいは反社会性パーソナリティ障害と呼ばれる。
今のところシドは、自分の中でそういうキャラクターに位置付けられている。
ウッディがシドを見放したのは、シドを「ゴミ」だと思ったから?
サイコパスの子どもは「ゴミ」なのか?
サイコパスの子どもは、手助けするに値しないのか?
シドとおもちゃ達が、うまくやっていける道はなかったのだろうか?
そんなことを考えたりした。
まあ本当は、トイ・ストーリー1で、ウッディはシドに、
「これから先は、おもちゃを大切に扱うことだな」
「もしもいじめたりしたら、すぐわかるんだぞ、シド」
「俺たちおもちゃは、どんなことでもお見通しなのだよ」
「だから仲良く遊ぶんだぜ?」
と忠告し更正を促し、シドを手助けしているのですが。笑
なのでこれまでの話は無茶苦茶なこじつけです。
最近ハウス・ジャック・ビルトという映画も観たので妄想が膨らんでしまいました。
それにしても、トイ・ストーリーシリーズはとても良い人生アニメーションなので、
自分の子どもに物心がついたら早く観てほしい映画ナンバーワンです。
まだ観ていない人はぜひご鑑賞ください。